神谷太刀宮(式内 神谷神社)
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概 要
社号 神谷太刀宮 神谷神社
式内社 丹後国熊野郡 神谷神社
読み 古 カムタニ、現 かみたに
江戸時代は「太刀宮」「神谷太刀宮」と称していた
所在地 京都府京丹後市久美浜町1314
旧地名 丹後国熊野郡
御祭神
丹波道主命(たんばみちぬし-・たにはみちむし のみこと)
配祀 八千矛神(やちほこ のみこと) 天神玉命(あめのかみたま のみこと) 天種子命(あめのたねこ のみこと)
例祭日 10月 17日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座 大37座(就中一座月次新嘗)小523座
丹後国(タンゴ):65座(大7座・小58座)
熊野郡:11座 並小
近代社格制度 旧郷社
創建 伝:崇神天皇10年9月四道將軍丹波道主命が創始
本殿様式 妻入造檜皮葺
境内摂末社(祭神)
寒川神社・川裾神社・恵美寿神社・稲荷神社・八幡神社
皇大神宮・秋葉神社・厳島神社・熊野神社・磯邊神社・金刀比羅神社
城山稲荷神社・天満宮・海上神社・愛宕神社・三柱神社
文化財
京都府指定文化財
神谷神社 本殿 天明元(1781)年建造
神谷神社 参考館(旧久美浜県庁舎玄関棟) 明治3(1870)年建造
京都府登録文化財
神谷神社 神門 江戸時代後期建造
神谷神社 境内社八幡神社本殿 江戸時代末期建造
神谷神社 鳥居 宝永4(1707)年建造
京都府文化財環境保全地区
神谷神社文化財環境保全地区
一口メモ
KTR北近畿タンゴ鉄道久美浜駅の西、豊岡方面からは国道312号線栄町(交差点)で旧道の府道670に入り久美浜駅手前踏切、久美浜庁舎角を西北へ。
歴史・由緒等
神谷神社は元は、神谷小字明神谷に祀られていたが中世の頃、戦乱にため社屋が破壊されたので現在地の太刀宮に合祀されました。太刀宮(たちのみや)は、丹波道主命薨去の後、命を追慕して創建された神社。
丹後平定を命じられた四道将軍・丹波道主命が出雲より大国主命をお招きして祀った神谷神社。その丹波道主命の神魂として『国見剣(くにみにつるぎ)』を祀った太刀宮。この二つが合祀されて現在の名前に至る。 『国見剣』の『国見』が訛って『久美』となり、『久美浜』の語源になったと言われている。霊験灼かなパワースポット。 毎年10月上旬には、神谷太刀宮大祭が行われる。
境内には。旧久美浜県の庁舎の一部が移築されしている。
-「京丹後市観光協会」-
由緒
神谷神社の主神、丹波道主命はまたの名を丹波比古多多須美知能宇斯大王と伝え、社記・古書によれば、第10代崇神天皇御宇10年9月(BC88)、天皇は天下を征するため、丹波道主命を山陰(丹波)、大彦命を北陸、武淳川別命を東海、吉備津彦命を山陽(西海)に印授を授い4人の将軍を四道に派遣することとなった。世に呼んで四道将軍と総称する。
その四道将軍中、随一と言う神谷太刀宮の祭神、丹波道主命が鎮撫のため、山陰地方に向われるに際し、出雲大社を奉斎する出雲地方の人々の心を和らげ、前途の平安を祈願し、但馬の国境である神谷の里に出雲国より、八千予神、天神玉命、天種子命の三座の御魂を迎え、久美谷川の清流の川上に社を創建奉斎されました。
丹波道主命は山陰地方平定後、国人となって永くこの久美浜の地に留まり、幽邃の地で海をかけ野をひらき人心の安定に当られ、遠き都人にとって常世につながる幻想の隠国熊野の郷、河上庄(現川上地区)の豪族の娘、河上麻須郎女を妃として四子をもうけ給い、その御一人日葉酢媛は第11代垂仁天皇の皇后に上がられました。命が去られた後、佩帯されておられた神剣「国見剣」を神璽として奉安し、小谷の里に出雲国の神々を合せ祀り、神谷太刀宮大明神と称え奉るを創始とする。遠く奈良時代にさかのぼる。
醍醐天皇の代に制定された「延喜式」神名帳(927年の法令)に登録される、郡内最大の境内地、本殿を始め、境内外に十余の社を鎮祭し、「神谷太刀宮」「太刀宮」と通称される古社である。「道ぬしの神のみことの言向けし つるぎの太刀の宮居かしこし」爾来、久美浜小谷の里を神域として、丹波道主命の功績尊崇は永く後世に及び、丹後、丹波、但馬一帯の衆庶から尊崇されて、神域、社殿も宏壮であったが、中世に一時衰退、荒廃したが、神谷太刀宮の信仰は後世に承け継がれて、当国を領する武将、近々の城主、久美浜代官などに尊崇されて、田地の寄進、社領の安堵により旧に復すると共に、近郷の衆庶の信仰次第に篤く、町衆の台頭と共に、神域社殿を整備し、本殿は天明元年(1781)入母屋造妻入向唐破風付檜皮葺を再建。出雲地方に見られる大社造の特徴を備え屋根組み、各所の彫刻など神社建築の秀作で特に「太刀宮造」と呼ばれる独特な建造物である。
昭和60年5月京都府文化財の指定を受け洗練された和風建築であり、他の付属建物も年代は新しいとは申し乍ら豪宕な神門と共に神域の樹木も自然風景に溶け込み、荘厳に大きく寄与し、聖なる造型を作り上げている。神職も由来は明らかでないが、代々相継ぎ現在に至っている。近世に久美浜代官所、明治初年に久美浜県の設置により、地方政治、産業の中心地であったため、近郷の衆庶から、あつい尊崇を受ける社で、丹波道主命を主神として奉斎する全国唯一の神社である。明治6年郷社に列し、明治40年3月神饌幣帛料供進神社の指定。明治42年1月会計法適用神社の指定を受ける。
「全国神社祭祀祭礼総合調査」 神社本庁 平成7年
境内・社叢
社頭鳥居
境内・社殿
道路をはさんだ向かい側
境内社
磐座(いわくら) 境内社 八幡社
厳島社
地名・地誌
久美浜(くみはま)
久美浜の地名は、丹波道主命の伺帯した「国剣」から「国見」「久美」となり「くみのみなと」「くみの見谷」「くみの浜」など久美浜の地名の起源になったと言われる。
久美浜県(くみはまけん)は、1868年(慶応4年)に丹後国、丹波国、但馬国、播磨国、美作国内の幕府領・旗本領を管轄するために明治政府によって設置された県であった。久美浜代官所、生野代官所支配地および但馬、丹波の旗本領の926ヶ村23万石を管轄した。当初は現在の京都府北部、兵庫県西部、岡山県東北部、のちに京都府北部に分布していた。
県庁は旧久美浜代官所(現京都府京丹後市)に置かれた。旧代官所は手狭であったことから、1870年(明治3年)に新庁舎が完成しているが、実働期間が短かったことから、移築されて後身の豊岡県庁としても使用された。(県庁門は豊岡市立図書館前に現存)
旧生野代官所支配地を中心に分離運動が高まり、1869年(明治2年)、但馬(北部の一部を除く)・播磨・美作3ヶ国を生野県として分離した。また、但馬南部の一部を篠山藩へ移管している。
1871年(明治4年)、第1次府県統合により丹波・丹後・但馬の11県が統合して豊岡県が設置されたため廃止された。なお、久美浜県権知事兼生野県権知事の小松彰は引き続き豊岡県権令を務めた。
1955年(昭和30年)1月1日 熊野郡久美浜町(旧)に久美谷村、川上村、海部村、田村、神野村、湊村が合併して久美浜町が誕生。
1955年(昭和30年)6月 山陰海岸国定公園に指定。
1959年(昭和34年)9月 伊勢湾台風。
1963年(昭和38年)7月 山陰海岸国立公園に指定。
2004年(平成16年)4月1日 竹野郡丹後町・網野町・弥栄町、中郡峰山町・大宮町と合併して京丹後市となり、消滅。
地 図
交通アクセス・周辺情報
久美浜県舎玄関棟(現:参考館)
神社の隣にかつての久美浜県庁舎の一部が保存されています。
参 考
「延喜式神社の調査」さん、他
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